丁寧に生きることとか

そうだ、私にとても足りていないのは素直さと丁寧さだなあと思った。素直に、丁寧に、生きたいと思っているのに、できない。「のに、できない」と言うより、「できてない」から「思っている」んだろうけど。

このブログも、プライドの高さとか、カッコつけたりとか、全然無意識だけど、「素直に率直に書いたら、どう思われるんだろう」とかって思ってる。思ったことを伝えようとした時、丁寧に落としこんで書いて、「伝わらなかったらどうしよう」とか「共感されなかったらどうしよう」とか「批判されたらどうしよう」とかって思ってる。だから、素直に、丁寧に、書くことが怖い。けど、今日はなんか思い立ったので、できるだけ素直に、丁寧に、書いてみます。丁寧にっていうのは、誤魔化したり隠したりすっ飛ばしたりせずに、って意味です。しかし、ちゃんと書けるか全然自信ない。

ネガティブな感情に否定的で向き合ってこなかった私

ええっと、まあ本当に唐突なんだけど、まずはこのテーマで書いてみます。「素直に、丁寧に、書くことが怖い」にも繋がることなのかなあと思うので。

私、最近自覚し始めたばかりなのだけど、自分のネガティブな感情に、自分自身が否定的で、向き合わないようにして生きてきたなあと、あるとき気づいたわけです。最近って言っても昨年くらいからだけど、なんだか生きづらくて仕方がないことに気づいて。自分のネガティブな感情、気付かない振りをしてた。ネガティブな感情を抱いている自分が嫌で。友達には、自分らしく生きれたらいいね、とか言っておきながら、自分が自分を否定して生きているなあと。友人の相談事も、友人の気持ちを汲まずにバカみたいに前向きでエソラゴトばっかり言っていた。自分の正義みたいなものを押しつけて、励ましたり諭したりしてるつもりになってた。ホントは友人は、そんなこと求めてなくて、共感とか、適切な見解とか、冷静なツッコミとか、そういうのが欲しかったと思う。そんなことくらい、自分を振り返ればわかるでしょうと。バカなのかと。今なら思います。いままでみんな、本当にごめん。この場をお借りして謝ります。ホントごめん。

自分のネガティブな気持ちと向き合ってこなかったから、余計に他人のネガティブな気持ちもうまく理解できないこともあったと思う。それで、自分にもネガティブな気持ちがあるんだ、ネガティブな気持ちを抱くことは悪いことではないんだ、と思うようにして、自分の素直な感情を殺さないようにしはじめて。Twitterのサブアカとったのも、そのためで。吐くことはできるようになってきたけど、まだ受け入れられない事のほうが多い。

他人の、自分へのネガティブ感情を想像すると悲しくなりすぎる

しばらくして気づいたことは、自分が誰かのことを苦手だなあと思ったり、何かのことを嫌いかもなあと思ったりする、そういう感情を抱いている自分に気づいたときに、それが他人に伝わること、自分がどうやって見られるかを、異常に気にしている。人がネガティブな感情を抱いていることに対しては、なんとも思わないのだけど。

例えばだけど、AさんはBさんのことを憎らしく思っていて、でもAさんはいろいろな立場上Bさんには「いい人」でいたほうが都合がいい状況があったとする。そこでAさんが、Bさんのいないときに、Bさんの悪口(と私が認識してしまうもの)を言っていたら、私はもうそれからAさんに気を使ってしまう。私の頭と心の奥の方では、「もしかしたらAさんは、私がいないところで、私の悪口を言っているかもしれない」と意識してしまう。そういううつ病もあるみたいですが、今回は端折ります。

今回の例でいうAさんみたいな心理や行動って、仕方がないというか、どうしようもないこと、だと思ってる。人には好き嫌いも、合う合わないもある。人は千差万別だし?十人十色だし?そんなこと頭ではわかっているんだけど、だけど、その「どうしようもない」ことを、私は受け入れられないでいる。うーん、「どうしようもないこと」自体ではなくて、その対象と言うか、向いている方向が私だったら、具体的に言うと「もしかしたらAさんは(以下略)」、を、考えると、本当に悲しくなってきて、泣けてしまう。いやいや、気にし過ぎでしょ、と自分でも思う。とても生きづらい。

自分が気にしているから、自分が他人へのネガティブ感情を抱いていることを自覚した時、そういう自分にとても抵抗がある。人に見せないようにしようと思う。で、いつしかそういう自分の感情自体に、気付かないふりをするようになったのだと思う。

勝手だけど、大体の人に「いい人」でいたい

でも、そんな私でも、この人にはどう思われても全然気にしないなーって人、中にはいる。例えば、私が全然知らない人。その人が私の悪口言っているってことを、私が知っても、私、平気だし。あ、でもその人が、私が知っている人と知り合いだったら平気じゃなくなる。あとは、私が「この人は私のこと見捨てないな」と思える人にはなんて言われても平気だなあ。なんていうか、勝手だけど、大体の人に「いい人」でいたいのかもしれない。

信頼していない気がする。人だけじゃなく、いろいろな事象も含めて大体に懐疑的。自分で見たものは信じられるけど、聞いたことは参考にしかしない。鵜呑みにしない。一度疑ったら自分で確かめないと納得できない。私って想像力がないのか。いや、想像力がないからこうなったのか?うーん、もともと備わっている生まれつきの性格なのかもしれないけど。というか、究極、今までの人生(というとなんか大きく聞こえるけどそうではなく生きてきた年月ともろもろの小さな積み重なった経験)でこうなったんだろうけど。大体の人に「いい人」でいたいって、割りとみんな持っている感情のような気がするのだけど、どうなんだろう。私、なんだか、偏り過ぎてるよね。。。

 

というかこれ書いていて、正直行き着くところがわからないです。今更だけど。私、何書きたいんだろう。まぁ、今回は素直に丁寧に書くことが目的だから、話の終着地点なんて始めから用意していないんだけど。うーん、まぁいいか。もう少し、今思っていること、書き続けてみます。

で、全然関係ないけど、おなか空いたなあと思ってお昼ごはん作って食べてきた。そしてPCの前に座ったら、まあ驚くほど書く気がなくなっていた。すごい。自分でも驚いてる。さっきまでのやる気はどこに行ったのかしら。満たされるって怖いね。ボクシング選手も大会前には奥さんや恋人に会わないようにするみたいだしね。満たされると闘争心がなくなるらしいからね。あれ?それとは関係ないか。私は誰とも闘っていないし。いや、自分自身と闘っているのか、、、?

完璧主義の末に行き着いたのは「諦めること」でした

どんどん収拾つかない感じになってきたので続けますが、丁寧に書くこと、エネルギーすごく使う。びっくりする。これでも一応推敲してるけど、丁寧さのバラつきがもうなんかすごい。ひどい。同じ丁寧さまで落とし込めなくて、諦めそうになる。てか一部諦めてる。

とか思いながら書いていて、今度は諦めという単語に引っかかったわけです。私、今までめちゃくちゃ諦めてきたなーと。私、割りと完璧主義だったんですが、自分の理想と現実のギャップに疲れてしまって、もうだんだんやりきれなくなってきたんです。理想があるっていうのは活力的になれるし、人生に希望があるし、なんか、多分いいことなんだと思います。でも、自分の場合、自分の現実に見合った理想(目標)じゃなかったり、周りの評価とか気になりすぎて、だんだん理想を追い続けられなくなってしまったんですね。自分に疲弊するって結構しんどいです。で、そのうち、もうやーめたっ!と割りきって諦めちゃうわけです。ビビりながら諦めるわけですが、意外と何とかなってしますんですね。そうすると、なんだ、案外イケるんじゃん、と謎に余裕の感覚を味わいます。少しずつ手抜きを覚え始める。こだわりとか、捨て始めてしまって。そういうのが繰り返されて、いつしか大雑把になって、今に至っているのではと思うわけです。

諦めずに取り組んでいれば達成感が得られたことも、手抜きしてすっ飛ばして、最終的には漠然と諦めたなーという感覚だけが残って。積み上げられるはずだった自信も、何もなく。

今まで生きてきた24年間を振り返ると全部そんな感じです。小さいころのことは覚えてないけど、覚えている範囲で、部活も習い事もアルバイトも今の仕事も全部そんな感じ。自分が納得行くまで何かを追求し続けるって、そういう経験全然ない。そういう経験している人、世の中には多くないのかもしれないけど、どうなんでしょう。私は今、そういう経験全然ない自分を、少し責めています。

負けず嫌いと、身についてしまった自己完結力

負けず嫌いだったっていう性格も追い打ちをかけてるんだろうなっていうのもある。負けたくなくて、負け試合には臨まない。はじめから、リングにあがらない選択肢を選ぶ。もしも、リングに上がらざるを得なくなったら、自分(だけ)が納得できるような合理的っぽい理由作って、はい予想通り負けましたねー、ってしてしまう。自分が傷つかないように、先に予防線をひいて、諦めてしまう。そしたら、負けたっていう感覚はないから。傷ついたら、もうしばらく立ち上がれない感覚がこわい。

そうして身についた力が自己完結力です。自己完結力って、確か鳩山さんとかいろいろ言われていましたが(雑ですみません)、今回の場合は「適当に理由つけて自分を納得させる力」を言っています。この力、世の中の理不尽さに耐えうるために存在する力といっても過言ではないような気がしますが、私の場合は、まーホントうまく使えない。上司や会社の理不尽さに対して、私はこの力を発揮できないんです。不器用すぎな自分がもう本当に苛立ちます。やるせない限りです。

ただそうやって、なんやかんやで自己完結力が育ってくると、細かいことを気にしなくなるわけですね。まるごと我慢しちゃうっていうか、まるごと諦めちゃうっていうか。過程とか気にしてると疲れちゃうし、はい、完結、ちゃんちゃん。って思えたほうが楽ちんで。で、そうしていくうちに、どうなるかっていると、諦めグセ、我慢グセがついて、言いたいことも言えなくなって(ポイズン)、で、また諦めて、という最悪の悪循環を生むわけですね。私、今まさに渦中。

どこかで、きちんと事柄を細分化して、きちんと分析していたら、この悪循環をまわることにはならなかったのかもしれないです。でも今までは生きるのに必死だったり夢中だったりし過ぎて、そんなタイミング全然気付かなかった。まぁ、今がその時なのかなあと。

 

まとめると、丁寧に書くことが怖いのではなくて、まず丁寧に書けない

自分のネガティブな気持ちをどこかの棚に上げてしまう上に、事柄を細分化せず自己完結してしまうから、説明が粗いわ、分析できてないわ、結果、全然論理的じゃなくなり、丁寧さのカケラもなく、人にも伝わらないと。もうおわかりだと思いますが、このように文章力も表現力もない自分です。素直に丁寧に書くことが怖いというか、丁寧に書けないという要素のほうが強いかもしれない。てか、そうだな。

 

素直に丁寧に生きるって、自分の中でもどんなふうなのか漠然としていて、きちんとイメージ出来ていないのだけど、これ書いてみて、少しだけわかった気がする。気がしてるだけかもしれないけど。。

まずは自分の気持ちを一個一個認識してあげたり、その感情を抱いた原因とか背景とか、振り返って、なぞってあげたりして、自分を理解したい。点を見つけて、また点を見つけて、点と点を線にしてあげる作業。その繰り返し。

 

丁寧に生きると聞いてなにかそういうイメージ持っているかたがいらっしゃれば、コメントとかいただけたら小さく跳ねて喜んだ上にまたいろいろ考えてみたいと思います。

特にアクセス数の多くないブログなので、今後もこじんまりやっていきます。

どうぞ、よろしくお願いします。